瞑想で何も見えなくても、起きなくてもOK – 体験にとらわれない瞑想を

光が見えたとか何かとつながったとか

瞑想をしたら、

「光が見えた」
「身体がふわっとした」
「宇宙とつながった感じがした」

こんな話を聞いたことはありませんか?

そして、そういった体験をしたことがないと

「自分は瞑想が正しくできていないのかな…」

こう思うことはありませんか?

でも実は、そうした体験は副産物に過ぎないし、体験が瞑想の目的でもゴールではない。何かを得ようとした(期待した)瞬間に、エゴや執着が生まれてしまいます。

瞑想した時にあった不思議な体験

私は、以前参加したヴィパッサナー瞑想の10日間コースで、体が熱くなる不思議な体験をしたことがあります。
その時の体験談はこちらの記事に

でも、それが瞑想から来たものなのか、いつもと違う環境からくる疲労からなのかはわかりません。何なのかを知りたいとも思っていません。

後日この話をした人に「クンダリーニが上昇したのでは?」と言われたりもしましたが、そのあたりはよくわかりません。

(どうでもいいかな、ぐらいに思っています…)

無我の境地に辿り着いてみたい?

瞑想や何かのヒーリングで「無我の境地に辿り着いた」という話もよく聞きますよね。

でも、ヨガでいう無我や深いサマーディは、言葉や感覚を超えた、言語化できないもの。

日常で語られる「無我」とはちょっと違うし、人によって何を無我としているのか違うように感じることもあります(その人が言う無我が正しいとか間違っているとかではなく)。

そして無我も「体験」として追い求めるものではない。「これが無我の境地だ」とラベルを貼った瞬間、エゴが生まれ、本来の道から外れてしまいます。

自分の瞑想をジャッジしない

だから、瞑想に対して結果が感じられなくてもいいと思っています。ただ静かに座り、そこに在るだけで十分。そのための時間を割くだけでも十分。

他の人の体験は、ほどほどに聞き流す。自分の瞑想をジャッジしたり、他人の体験に心を左右されたりする必要はない。

瞑想で「何も感じなかった」「何も見えなかった」それで全然OK!むしろ、その正直な感想を大事にしたいと思ってしまう。

もし何かが見えたり感じたりしたら、右から左に流すくらいの気持ちで。その体験に執着しない。



結果にこだわらず、ただ座るその瞬間を大切にする練習なのかなと思います。

瞑想での体験を気にしたり、何かが起こることをうっすら期待したり、他人の体験に自分を寄せようとしてしまうこと、ゼロではないと思います。だから、少しだけ私の考えを書いてみました。

私は決して瞑想の熟練者でもエキスパートでもないので、一個人のつぶやき程度に捉えていただければと思います 🙂

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ABOUTこの記事をかいた人

オーストラリア・ブリスベン在住、東京都出身。在豪歴延べ20年(パース・シドニー・ブリスベン)。日豪での会社員生活からヨガ講師に転身。ヨガアプリ「Down Dog」の日本語音声&翻訳、「ヨガジャーナルオンライン」のライター、シンギング・リン®︎ サウンドセラピストとしても活動中。